相手の立場になって判断や行動をすると言う事は、なかなか大変な事であります。この「修行」は、現在では通用しなくなりました。私の会社では、経営をしていくうえで他社とは大きなビジネスモデルの違いが有ります。他社と同じことをしていたのでは、我が社のような零細中小企業は、生き残れません。常に非常識と思われる事に挑戦して、常識に変えていく作業をしています。だから社員とはいつも意見の食い違いが日常にでてきます。そのときの例題を披露すると「座敷の畳の上に、親の帽子が置いてあり、それを子供が足で踏んだ場合、親は必ずよく見て歩けと言います。」「同じ様に帽子を親が踏んだ場合は、こんな所に置いとくな。」どちらが正しいか、この質問に皆さんは正確に答えられますか?この回答が「修行の量」です。職場や学校、住まいが変わると今までの判断基準や環境そして付き合う人々が変わります。その時に必要とされる考え方は、その変わった先の判断基準に合わせることです。ここで大事な事は、合わせると言う事は、身も心も合わせることではありません。自分のステージに、身も心もしっかり置いておき、もう一人の自分の身も心を相手のステージに、合わせていくことです。そして暫らく様子を見ながら、相手と異なる考え方が正しいと判断したら変えることです。これこそ「不易流行」です。この様な手法は、相談にのられたりした時に明確な答えを出してあげる時の、心がまえとして必要な事です。私は中学卒業と同時に15歳でお菓子屋の丁稚に入りました。つまり「修行」に出たわけです。中学生の頃は我がままで、自分中心で物事を判断していました。自分の考え方や生き方が違うと思うと悪いことは悪いとはっきり意見を言っていました。今思うと、確かに誰が考えても私のほうが正し事も度々あったけれど、相手の目線で考えると、相手も正しかったかなと思う事が度々ありました。そのズレをすり合わせればすり合わせるほど知恵が上達し、やがてその人の哲学になるのです。実体験で得た知恵は、どんな場面にも応用が効きます。もう一度わかりやすく説明をすると「修行とは、今いるステージを変えないで自らが相手のステージに合わせる事です。あわせる時の気の持ち方は相手には失礼だが、ステージを下げると考える事が大事な考え方です。そして謙虚で素直に相手の考え方とすり合わせていく事」が、変化に対応できる活力だと私は思います。たぶん戸田語録愛読者の中にも現在の乱気流世相のなかでは毎日のように、この問題に遭遇しているのではないでしょうか、我が社では、少しでもズレを少なくするために、判断基準を一冊の冊子にまとめています。困った時の羅針盤の役目です。名称は「しあわせ手帳」と命名して、毎日の朝礼や会議時に1ページごとに唱和をして、心の底まで落とし込み全員が同じ考え方で毎日の業務の支えにしています。最近の世相を見ると考え方や生き方が明確でないうえに、学力や業績だけを判断基準に人生の甲乙を重視しているように感じます。今こそ儒教的精神を学び自分の人生観のベースにしてもらいたいです。