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戸田語録



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盛和塾全国大会発表(原文):題名「負けん気が本気になって」

私は、静岡県掛川市領家無番地に、昭和23年11月に生まれました。父は満州鉄道の引揚者で、私の生まれる3ヶ月前の8月に亡くなったそうです。私の家族構成は、複雑で、腹違いの兄や、種違いの兄弟5人の、貧困な家庭に育ちました。兄は口減らしに、親戚の家を、転々とさせられ、学生時代の兄の面影はありません。家は、堤防の下の、河川敷に、押入れ付き、8畳一部屋のバラック小屋に、家族7人で暮していました。トイレは、外に在り、笹囲いの2本橋でした。台風のある時は、海水パンツで寝ていましたが、ひどい時には近くの民家の、軒先を借りて、過ごしました。集落の家は、本屋、別屋、お蔵と、大きなお屋敷が多く、お金持ちばかりでした。いつも「400m西か東に生まれればなー」と生まれた場所を悔やんでいました。小学生の頃まで、電気もなく、水道は、中学卒業するまで私の家だけは、有りませんでした。小学校の頃は、学年会費が、払えない時が度々あり、いよいよ困ると、母と近所に、油揚げ一枚を持って、お金を借りに言ったの、を覚えています。春の遠足は、歩きなので行きましたが、秋の遠足は、バス代が掛るので、必ず身体の具合が、悪くなったものです。もちろん小学校の、修学旅行にも、行けませんでした。小遣いを稼ぐといったら川原の、鉄屑拾いか、メジロや、食用かえるを、捕まえて、売りに、行く事ぐらいでした。中学になり、1学年の生徒数も、100人ぐらいから500人になり、貧乏も目立たなくなり、少しは心が落ち着いてきました。朝は新聞配達や牛乳配達をし、休みの日には、餡子屋や本屋の、配達に励みました。堪えたのは、冬の牛乳配達でした。手袋を取らなくては、手が滑り、ビンが割れて、弁償しなくてはいけません。同級生が飲んだ、飲み口を、素手で触るなんて、冷たいやら情けないやらで、本当に悔しかったです。その内に配達をするより、拡張する方が、手数料が多いと言うことを聞き、配達は後輩に譲り、牛乳と新聞の拡張に励み、良い成績が出て、楽にお金を手にする事が、出来る様になりました。中学2年の1学期の終わりに、進路指導で、進学組と就職組に、分ける事になり、親に相談をすると「お前は養子です。親の役目は、義務教育までですから、就職組に入る様に」と言われました。提出書類の続柄にも、養子と書いて、有りました。そう言えば今までに、他の兄弟と、何か違っていた様な気がして来ました。その1つに食事の時、決まって説教が始まり、兄弟が食べ終わるまで、正座をさせられ、殴られて、義父の、子供の食べ終わった後何も、おかずの無い、ちゃぶ台で、麦飯を、沢庵や梅干の、お茶付けで食べる事が、多かったです。それからは、何につけても、親を恨んで見る様になり、勉強も疎かになっていきました。頭の悪い同級生が、みんな高校に行くのに、僕が行けないなんて、世の中おかしいと思い、同級生まで、憎むように、なりました。顔もみた事のない父を恨み、お袋には、「なぜ再婚したのだ」と冷たく、当りました。私は「この様な、荒れた家庭環境はいやだ。どんな事をしても必ず、お金持ちに成る。そして、同級生には負けない」と心に誓いました。就職先では色々悩みましたが、給料は安くても手に職付けて、独立しやすい、お菓子屋に丁稚奉公に、出ました。朝は4時30分に起きて、桜餅の葉を、お寺の境内にとりに行き、毛虫に刺されたり、お坊さんに追われたりしました。お菓子作りを、教しわる事より、配達が主な仕事でした。配達先は、スズキヤマハ、本田、日清紡など、お客様の、手土産用や、社員さんの誕生日のプレゼントに、また、高級住宅街の奥様に、お茶会用の、お菓子夜は小料理屋やクラブなどに、配達していました。空いた時間には、洗い場と卵割りや、粉ふるい、そして、材料ハカリをしました。この時が配合を覚えるチャンスでした。給料は1ヶ月3000円で、半分を貯金する事にしました。この調子で行ったら、同級生が、高校卒業する、18歳までの3年間ではとても覚えきれないし、資金も集まらないと思いました。当時の浜松経済は、ガチャマン景気と、2輪車の生産で、好景気でした。夜の繁華街は、遅くまで繁栄して、お持ち帰りのお菓子を、夜9時まで配達を、していました。一所懸命頑張れば、認めてもらえると思い私は、小料理屋や、クラブを閉める12時まで、配達時間の受付を、伸ばし配達をやる様にしました。遅くまで頑張ればと、下心を出し、頑張りましたが給料には、跳ね返りませんでした。そこで思い付いたのが、つり銭チップ作戦でした。クラブのお客様に2,000円位でと、商品を頼まれると、わざと1,800円分を、菓子折りに詰めて、持っていきます。お客様は、必ず2,000円を、お札で払ってくれますので、お釣りを200円返さなければなりません。そこで私は、「角のタバコ屋でくずしてきます」とお金を、預かろうとすると、ホステスさんが、必ず「チップであげな」と言って、くれました。ホステスさんへのお礼は、会社から、黙って頂いた焼き菓子、2つでした。このチップ作戦は、馬鹿に、成りませんでした。そこで昼間の、配達時にも、稼ごうと思い、職人さんたちの、買出しを受ける様に、しました。配達の帰りに、セールかごを、見て来ては、販売して1割の、手数料を、稼ぎました。また風呂券は、毎月の、給料袋に15枚配給が、有りましたが、自分では、5枚しか、使わず、風呂屋の前で残りの10枚を販売しました。自分は深夜に、工場に行き、餡子練のお釜に火を入れて、風呂替わりにしました。丁稚奉公は、本当に楽しいものでした。同級生の高校卒業時期が来て、独立の夢を実行しようと思い、製菓衛生士を取得、保健所の許可を取り、3坪の工場を作り、菓子製造卸業を18歳で独立開業しました。開業1年目、アルバイトも使い、順調に経営、し始めたので慰安旅行に、行く事にしました。この帰りに、大型ダンプに、追突をされ入院し、廃業になりました。居眠り運転手の御蔭で、一瞬に、夢も希望も消えてしまい、後ろ向きになり、世の中、何に付け、悪く見る様になってしまいました。それに、輪を掛けて入院先の患者の質が悪く、七癖つけて金をたかっている、常習犯が、大勢いました。私は、すっかり感化されると共に悪い、家庭環境の中で育った、体の奥深くにあるDNAが、目を覚ましました。そのまま、裏社会に入り、もうぐれる一方で、警察にも、相当マークされながら、いろんな所に身を置き、ここでは、お話できない道を、歩きました。何とか、まともになろうと思って、親戚の、筋もんですが、電気工事や土木・水道工事を、経営している、会社に、身を寄せる事に、しました。又、そこの社員と言えば、少年院や、刑務所帰りの、筋者ばかりで、仕事をしていました。そうしている内に「こんな事を、していたら、カッコウが付かん」と思う様になり、もう一度、堅気になって、挑戦をしようと思い、退職をしました。この時の経験は、本当に良い、勉強になりました。そうこうしている時、うまい具合に、育ての親が、ローカル鉄道の駅前に引っ越す事を、聞きつけ、土地の一部4坪を、借りることにしました。今度は卸業ではなく、お店を、出すことにしました。しかし、駅前とは言っても人の通りなど、まったくなく、高校生や、チンピラの、溜まり場になり始めました。このまま、商売を続けても、金持ちに成るまでには、程遠い事も分かって来ました。この時期、周辺は、高度経済成長のお陰で、土木仕事や建築関係の、仕事が多く、回りの度胸のある連中は、素人に、毛の生えた位の技術で、大勢の人を使い、成功していました。その光景を見て、自分も建設業の方が、性格に、合っている、のではと思い、人づてに、仕事を、探しました。お菓子屋の、夏場の暇なとき、早起きをして、1日分の、お菓子を作りお店に並べ、店番は、パートさんに任せて、工事現場への、人夫だしと、二束のわらじを、履き、始めました。少しずつ、請負まで始める様になり、人手の足りない時には、ぐれていた頃の、顔を生かし、舎弟達を使って、人集めをさせたり、店でたむろしている、高校生の、番長連中に、人夫だしを頼み現場を回して、行きました。この時期を境に、お菓子屋を、思い切って、廃業しました。何でも請け負って、いましたが、本業で、やるには、どの業種にするかと、随分悩みました。電気屋は、電力会社の許可と、ある程度の、協力会、入会金が、かかります。土建屋は、掘削機や、ダンプ、そして技術が、必要です。水道工事屋はプラモデルを、組み立てるより、簡単な、糊付けが出来て、機械や、道具にもお金が掛らず、軽トラ一台と、人間掘削機で、十分な請負が、出来ると思い管工事業として、看板を上げました。当時は、本業の水道工事は2割ぐらいで人の嫌がる、金の稼げる、解体工事や、工場の、スズメの巣や、ハチの巣を取ったり、防空壕の、穴埋めなど、寝る間も、おしんで、働きました。管工事業を、始めて少しした頃、お菓子屋を再開した時に、結婚した女房に子供が、出来ました。私は、自分の生まれた環境を、思い出して、この子が物心、付くまでには、きちんとした、資格を持った、水道工事店にしようと強く思いました。そんな時、仕事を紹介していただき、可愛がってくれている町工場の、社長が「そんな便利屋的な仕事を、どんぶり勘定なんかで、していないで、経営の勉強をしなさい。」と言って、県の後継者育成課が、主催している、中小企業大学の受講を、紹介されました。研修会には、一流大学を卒業したての、後継者や、会社の幹部役員達が、出席していました。私にとってはみんなと、机を並べてやる事以前に、テキストの漢字すら、読めませんでした。そして、損益計算書や、貸借対照表など、まったくチンプンカンプンでした。でも、「これが、解らなくては、金持ちになれない」と、自分に、言い、聞かせ経営計画の作り方や、会社の、経営理念、そして就業規則など、一生懸命学びました。もう1つは、私と違う人生を、歩いてきた人達から、本当に腹を割って、一般的な常識や、人間的生き方を、教えていただきました。毎月2日間の、泊り込みで、12ヶ月の研修会は、毎回毎回が、驚きと面白さで、私にとっての、大転機でした。それまでは、地域の人達や、地元業者と、いつも、いさかいばかり、起こしていましたが、我慢を覚え、人との同調も、出来る様になり、会社も、成長し始めました。久しぶりに、同窓会に行くと、中学しか出ていない私が一番羽振りが良い訳です。それからと言うもの、同級生や周りの人達に、調子に乗せられて、接待を理由に、夜の街に、通い始めました。仕事は、真面目にする訳ですが、朝、ひばりの鳴くころに、タクシーで、帰るのが、毎日の様になり、夏などは、家に着く頃には、日が昇っている事が、度々ありました。多くの、馬鹿社長や、お客様と、誘い合わせて、遊びほうけて、いました。本宅も建て、露天風呂や、サウナ風呂も、設置しました。地元の、興行師に相撲巡業の、勧進元を頼まれたり、高見山関や、増井山関を、民泊させて接客したり、プロ野球選手を、田舎に、呼んで、ディナーパーティーを開いたりして、タニマチに、ボケ始めました。それでも高度成長の、ブームに乗り、仕事だけは順調に、回っていました。勿論、毎朝の朝礼で、中小企業大学校で勉強した、経営理念「最高の技術で、より多くのお客様に満足を与え適正利潤を確保する」と唱和していました。28歳から、ライオンズクラブにも入会をし、地域社会にも、貢献をしていました。本当に、いい気持ちで、生活をしていましたが、ある時、貧困に育ち中学しか、出ていない私が、この様な生活をしている事が、何かおかしいどうも、道に外れている事を、しているのに、築き始めました。そのころは昭和63年、バブル経済の、上昇中でした。会社の事業も、管工事業を主軸に不動産部の営業を拡大、し始めていました。私は突然、不動産の、営業社員を集めて、土地を右から、左に転がすだけで、利益が、水道工事の、何倍か出る。どうも、世の中おかしいから、ここらで、不動産売買から、撤退する事を話しました。会社が、営業として、抱えている案件は、すべて君達に、あげる。お客も、持って、行けばよい。他社に、移籍してもよし、独立して店を持つのもよし、協会に入会する、保証人は、私が喜んでしてあげます。そして、会社に残る、希望のある人は、賃貸業務をして、頂きたいと話しました。全員が口を、揃えて「もったいない。これから儲かる時なのに撤退するなんて」と、言い残し、ほとんどの人が、退職して、行きました。宅造地用に、と買った、手持ちの、高い土地には、アパートを、建てました。その家賃収入を、土地の、借金返済にまわし、賃貸業を本格化して行きました。その業務変更が、今の、リフォーム事業に、繋がっている事は、間違い有りません。もし、あのまま続けていたらと、思うと、冷や汗が、出てきます。会社の、考え方も、経営も、少しずつ、良くなっては来るが、私のライフスタイルは、相変わらず、適当でした。そんなある時、私の隣町で、私の失敗した、お菓子屋を、日の出の勢いで成長させている、青年経営者が、電話で「為になる、異業種交流会が、発足するので、入会したら」と、誘ってくれました。どんな会でも、懇親会の大好きな私は、軽い気持ちで、出席の返事をしました。たしか、私の記憶では静岡盛和塾、開塾前の、名古屋盛和塾に、参加をした時です。例会で、難しい話をするのは、良いのですが、懇親会に入ると、せっかく呼んだコンパニオンを、ほったらかして、塾長を始め、塾生ら皆が、立ち上がり肩を組んで「ふるさと」と言う、童謡を、歌いだすのです。わたしはしめしめと思い、もう一人の、経営者と、声掛け合って、コンパニオンを自分の、席に集めて、大きな声で、コンパニオンを、からかって、いました。塾長は、その時の事を覚えて、いらっしゃらないと、思いますが、私は大きな声で、注意をされました。その頃、正面向かって、私を、叱る人など周りには、いませんでした。私は、返す言葉もなく、塾長の話をバツ悪く聞いたのを、鮮明に覚えています。塾長はおっしゃいました。「あの歌は、私が創業時の、苦しかった時、加茂川のほとりを、歩きながら歌ったものだ。ここは私が主宰している勉強会だから、私の考え方に同調できなければ、来なくていいですよ」と言われました。その一言で、私の心は、ズキズキと痛みました。今思うと、なぜあの一言で、私は素直に、聞き分けたのか、想像が付きません。それからと言うもの、今までの、甘い考え方を捨て、塾長の、本を読みあさりました。それ以前は、松下幸之助さんや、本田宗一郎さんを始めいろんな人の、伝記を読み、自分の夢を、かき立てていました。その後盛和塾に、出席をし始め、塾生の人達も、今まで私が、出会ったことの無い様な事業欲があり、スケールが大きな人達でした。例会時は、塾長の話を聞く為に、一番前に、陣取り合戦をして、真剣に講話を、聞いていました。そんな、ある時、ブラジル例会の、参加のお話を聞き、何がなんだか解らないが、塾長の全体像を、把握したい。そして、塾長の、真の姿をとらえられる、良いチャンスだと思い、即、申し込みをしました。塾長はブラジルの塾生を、我が兄弟、我が子供の様に、本心で接し、相談に乗っておられました。遠い地球の裏側に、移住して、塾長の、教えを、生活の中に落とし込み、実践なさっている事を、目で見た時は、何か、次元の異なる自分でも、分からないものに、惹きつけられていきました。勘と度胸で,経営をして、小成功を、掴んで「田舎の、プレスリー」を、していた事を、なんと恥ずかしい事かと、強く思う様に、なりました。例会の参加を重ねるたびに、塾長の教えを、あたかも自分が、思っている様に、女房や社員に話をしたものです。例会参加後の数日間は、塾長の教えが頭に入ってはいるが、それ以後はいつもの自分に、戻ってしまう事が、ほとんどでした。思いが薄れてくると、盛和塾の冊子や塾長の書物を読み、頑張っていました。しかし、気が付くと、自分だけが、分かっているだけで、会社や周りからは浮いて、妻や社員からは「社長、どうかしたの」と、言われました。これでは会社は、変われないと思い、塾長例会に、女房を誘うことにしました。照れくさかったのですが、ある時、女房に、話をしました。女房も最初のうちは、「そんな話を、聞くより、仕事を一生懸命、する事だよ」とか「貴方だけ、聞いてくれば」と言っていましたが、度々の説得に、何とか仕事の段取りを付けて、行く様になりました。数を重ねるうちに、女房の方が真剣に、学ぶようになりました。その頃、塾長講話の内容は、私達にとっては生々しく、会社に、取り入れなくては、いけない所が沢山あり、実践するのが楽しくて、たまらなかった者です。また、講話の後の、コンパは、どの塾生も相談にいくと、怒られ、その度に、どよめきや、笑いが、耐えませんでした。全国追っかけ組は、遠い地区に行くと、人数も少なくて、例会回数は今より多く、私たち夫婦は、2年間、皆出席で勉強をさせて、頂きました。1次会から、3次会まで、ほとんど、横に座れて、説法を、聞けて、酒も沢山いただき、最後に、ラーメンが定番でした。夜の街から、足を洗い始めた私には、塾長のパワーに、ビックリする、ばかりでした。例会参加当日までは「たまには、終わったら、温泉でも、1日ゆっくりと、泊ってこよう」と思いながら、出かけるのですが、講話を聞くと、とても、遊んで帰っては社員に、申し訳ない様に思い、とんぼ返りで、帰りました。暫らくすると、塾長が病気になられてしまいました。それは、大変ショックでした。でも塾長は、すぐ元気になられて、例会を、開いていただきました。塾長を見るに、辛い一年を、過ぎた頃でした。私も、人間ドックで、癌を宣告され、それが悪性の、癌でした。「俺が何で、癌にならなくてはいけないのだ。昔の自分なら、仕方が無いが、盛和塾に入り、心を入れ替え頑張って、仕事をしているのに」と、思いました。それから、手術までの期間は、冷静さを保つに、大変でした。女房は、私の入院中、見舞いに来る度に「神様みたいな、塾長だって癌になられて、快復され、頑張って、私達の為に、指導してくれて、おられるのに、貴方だって、必ず病気は、快復するよ」と、言うような事を、私の心に入り込む様に、言う訳です。私は、その時「ちょっと待ってくれ。同じ病気でも塾長は、自分より、数百倍も、試練を受けて、おられる人だ」と、言うが女房には、その微妙な、違いまでは、分かりません。女房は家で、機関誌を読んでは、見舞いに来るたびに、塾長の、話をするのです。私が、素直に聞いて信じれば「塾長は、快復なさった、のだから、貴方も直る」と、信じ込んでいたようです。退院後、幹部社員の10人を、自宅に呼んで、あと残された命が、2,3年である事を告げ、暫らくの間は、お客様や取引先が、心配するので、絶対に外部には、洩らさない様に、と話しました。そして私の生い立ちや、仕事に対する想いを伝え、後継者は、暫らくの間、女房を中心に、チームワークを組んでフィロソフィーを判断基準に、会社を継続してもらいたい事をお願いしました。話し終えると、明るい笑顔で、「社長、僕達に任せてください」と言って下さいました。社員、一人ひとりの、目には、涙がうるんでいました。その姿を見ると「私は、なんて幸せ者だ。」本当に、良い仲間と、仕事をして来た事に感謝をしました。その日は、久し振りに、夜遅くまで、酒を酌み交わしました。その後5年間、抗がん剤を、朝昼晩と、飲み続けて生活していくのはきつく塾生の元気な姿を見るのが、自分にとって情けなく、例会にも身が入りませんでした。自分の気持ちが、落ち着いた頃、例会で塾長に「胃癌になりました。塾長は、胃を三分の二、取られたようですが、僕も四分の三、取りました」と報告しました。塾長は「私は2回も手術をした」とおっしゃいました。本当はその時、食道、大腸に、転移をしている、時でした。そして終わりに、一言「信仰せんかい」と、言って下さいました。その時、今までの心のモヤモヤが気持ち良くはれて、後ろ向きで、暮していた事が、恥ずかしくなりました。今まで、お墓参りは、育ての親の手前、就職する時と、結婚の報告と2回しか、行っていませんでした。塾長のお話を聞き、女房と墓参りに、行く事にしました。お墓に手を合わせ「俺の種付けをして、生まれる前に、何の責任も取らずに、死んでしまい、存分苦労をさせた貴方を、本当に恨んでいました。もし出来る事なら、僕の頼みを1つだけ、聞いてくれないか。この悪性の癌を良性に変えてくれ」と、絶対に出来ないことを、無理を承知でお願いしました。そうしながら、身の回りの整理に、入り始めました。そして管財会社であるトダコーポレーション株式会社の、社長を、女房に、交代の手続きをしてトダックスも、決算が来たら、女房に変更しょうと、手続きを、し始めました。病院は、検査と、結果、そして、診察の、連続でした。暫らくするとお医者さんに「転移した癌が、良性になりましたよ」と、言われました。その時は、嬉しいやら「もしかして、先生が、女房と結託して、嘘を付いているのでは?」と、疑いもしました。先生に「社員や、みんなに、駄目だと話してあるのに。」と、言ったら「私が会社に、謝りに行くよ。」と、言ってくれました。それから毎月、お墓参りと、宮参りを、現在も欠かさず、続けています。「信仰せんかい。」の塾長の、言葉の奥の、深さには、本当に、敬服しました。癌を、患った事によって、心の学びの量となり、病気をして良かったと思う様に、なりました。振り返ってみますと、管工事業を、ベースにリフォーム業・不動産賃貸業、3事業部門で、売上10億、利益3000万円従業員43名と、地域一番店に、向上できました。これは盛和塾で、学んだ事がベースにあります。また、今ある命を、与えられた命とみて、周りへの恩返しする時だと、思っています。そして、自分の、経験を通して、「学歴や、肩書き、家柄で、人間の価値が決まるものではない。心を高める事で、自分の人生が、すばらしくなる事を多くの人達に、説きたい」と思いました。その1つに、高校生の進路指導です。定時制高校・単位制高校、そして校内の荒れている、高校などを始め、多くの高校に、伺っています。最近は、静岡県内を始め、愛知、岐阜、神奈川県まで出向いています。また異業種交流会や、商工会議所、その他、各種団体なので小成功で満足している後継者、自分の力に、限界を感じている、小企業経営者にも、塾長の教えと、私の、経験と、生き様を、お話しています。講演を、していると、いろんな人に、出会います。ある時、旧天竜市の商工会から、講演を、頼まれた時の事です。天竜市長を始め、商工会長さんが玄関まで、出迎えていただき、応接室に入ると、事務局の人が「玄関の片隅に腰の曲がった、お婆さんが、戸田さんに会って、渡したい物があると、言っています」と、言われるので、お会いする事に、しました。そのお婆さんは小学校3年の時の、担任の、先生でした。「直員君、ですよね。新聞の、講演記事を見みましたよ。きっと、直員君と思ったの、直員と言う名前は、そうは、ないから。マツタケご飯を、持って来たよ」と、言って、竹の子の皮に、マツタケご飯を、新聞で包んで、渡し「元気で頑張ってね」と講演も聞かずに、帰られました。その先生は当時、とても貧しく、食べる弁当もなく、お腹を、すかしてばかりいた私にそっとお弁当を、分けてくれました。先生は、まだ私が、お腹をすかせているのだと、思ったのでしょう。腰の曲がった、後姿を見て、私は、独り言で「先生、今は十分、食事しているよ」と、言っていました。また、病気になる2年ぐらい前から、塾生と地元の仲間で立ち上げた異業種交流会を、本物の勉強会の場にと、誠心誠意、会の会長として頑張っています。最近会員も、90社強になり、我が会から、卒業して静岡盛和塾に、入会して、一段と立派な経営を、成されている方が、増えて来ました。ある時、会員に「会長、僕達に成せばなる、頑張れといっても会長が、しっかり経営をして、お手本を、示して下さい」と、言われました。会員のお手本までには、程遠いのですが、最近4年間の決算書は、借入金ゼロ32期の、決算書は、預貯金で、総負債を払える、状態になりました。塾長の、教えである「美しい決算書」を、目標に頑張っています。常識知らずで、世間知らずの、この私が、幼い時の夢「村一番が、地域一番」になれたのも、静岡盛和塾に、誘っていただき、塾長との出会いが、会ったからこそだと、感謝しています。最近、塾長例会に、足が遠のいてきた折に、この発表の機会を、与えていただきました事は、何か、神様の施しだと思い稲盛塾長の、塾生として、残された人生を、世のため人の為に、出来る限り精進する事を、誓います。有難うございました。




平成19年11月18日
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